大宮停留所(現大宮駅)
 
昭和20年8月15日の終戦により打ちひしがれた民衆の心を、その直後に支配層から提唱された国策としての「平和国家」「文化国家」の建設と云うスローガンを掲げ、又当時の流行歌、並木道子の「リンゴの歌」に希望をつなぎ日本全国一丸となって戦前の生活のリズムを取り戻すべく復興に努めた。
我々の町、大宮もアメリカ軍の東京空襲の帰りに残った焼夷弾を投下され、現在の北銀座通り及 び一番街(当時は栗友横町)周辺は焼け野原と化した。
しかし大宮も例外ではなく、戦前の生活 のリズムを取り戻して行った。
まず現在の高島屋の所は戦禍を逃れた郵便局と戦時中強制疎開によって避難した人達の家が十数軒あったが、戦後そのまま居ついてそこにバラックを建て各自が生活していく為に商売を始めた。
これが、後の駅前商店街で高島屋が出来る直前の昭和43年まで続いた。
また今の中央デパートの有る中央通り商店街の両側に、いわゆる「ヤミ市」ができ、昭和21年12月には「ストリート・ナンバーワン」の看板が栗友横町の両入口に掲げられ、のちの一番街商店街の誕生となった。
当時の一番街は10店舗位でほとんどの人達が他の所から来た人で構成されていて、通行量も一日数十人にすぎなかった。
それにひきかえ銀座通り及び仲仙道商店街はほとんど昔からの、その土地の商店で形成されていった。
当時、町には復員軍人、引き揚げ者、戦災孤児そして、アメリカの進駐軍また彼らに群がるパンパンガール(売春婦)等であふれていた。

物資が無く、仕事も金も無い激動と混乱の時代で男でさえも職業どころでなく、その日の食料をいかに求めるかが大変であったのだから、若い婦女子が 一人で生きてゆく為に前述の売春婦にならざるをえない暗い時代であった。
この様な状況の中での民衆の要求はまず食糧、二番目に衣服、三番目に住居であった。
したがって商売も食料関係、衣服関係はありさえすれば売れる状態であったが、なに分にも物資不足で思う様にいかなかった。
そこに登場したのが「ヤミ市」だった。
近在の農家から御米(統制されていた)等、又進駐軍から払下げないし横流し品、すなわち彼らの使い古した衣服洋モ ク(外国タバコ)、粉ミルク等々色々でした。
したがって、この昭和25年から昭和30年にかけては我々の商売も品物をおいておけば何でも売れる文字通り神武以来の好景気であった。
しかし昭和32年には神武景気の反動で鍋底景気となって現われた。
政府の金融緩和と企業の在庫調査により昭和33年には景気は上向に転じ、またまた昭和34年には 岩戸景気と云う好況となった。 
また、この年は皇太子御成婚と云う戦後最大の明るい話題があり、町々も、美智子妃にあやかりミッチーブームに沸き返り商売も順調そのものであった。
昭和39年東京オリンピックの反動で、翌昭和40年から昭和42年にかけて不況の波がおとずれた。
この間は大宮市の商圏における大型店進出のラッシュ時代でした。
大宮の大型店進出はまず昭和41年には中央通りの地元商店に東京名店街及びスーパーのオリンピックを加えた中央デパートが誕生し昭和42年に大宮ステーションビルが出来ここも東京の名店街と地元商店等で形成された。
昭和43年には一番街中央小高新聞店と仲仙道側八百倉ガソリンスタンド跡の所に入り口を付けて 、チェーンストアー長崎屋が生まれた。
そして昭和44年には銀座通り側と仲仙側そして一番街中央に入口を付けて大宮初の本格的なデパート、西武百貨店が誕生した。
尚、この西武デパートが出来ると同時にみゆき通り商店街がなくなり、その通りの専門店と一番街の専門店数点がこの西武デパート内に入った。
翌昭和45年には、もとの駅前通り商店街と郵便局あとに高島屋デパートが進出して来た。
これにより当時の大宮市の人口は約30万人弱であったが、商圏人口は約100万から150万人と云われた。
そして高島屋進出によって大宮市における大型店進出の波は一段落を向かえた。
その後、開発が大幅に遅れていた大宮駅西口が桜木小学校、商工会議所の移転にともない開発が始まりダイエー、丸井が進出し数年後そごうが進出した。

 
 
日出銀行
 
 
銀座通り